古典の世界 その1 曲垣平九郎 寛永三馬術 誉れの梅花 愛宕山
江戸初期の馬術の達人、曲垣平九郎は、讃岐生駒藩四代領主、高俊に仕えていた馬術師範役だったといわれます。平九郎が、一躍名を挙げた「愛宕山馬術の誉れ」は、寛永11年(1634)正月、江戸の芝愛宕坂の故事にちなんでいます。
この日、菩提寺である芝増上寺を参拝した将軍家光公は、その帰途、愛宕山の下を通りかかりました。そして、ふと見上げた山の上に梅の花が美しく咲いているのを見て「誰か馬にてあの梅の花を手折ってまいる者はおらぬか」ときんじゅう近習(常に主君のそば近くに仕える人)の者に問いかけました。
愛宕山は、標高四十五メートルの小さな山で、愛宕神社が奉られています。拝殿までは、山の下から四十度という急勾配の石段があり(八十六段)正面の参道を男坂。これに対して女坂と呼ばれる登り道は、男坂の右側にあり、石段は百九段ありますが男坂より勾配はかなり緩やかです。
山上まで一直線に上る急勾配の男坂を、騎馬で登れという将軍の言葉に従う大名、旗本の面々は、互いに顔を見合すだけで、誰一人として名乗り出ようとしません。
そのとき、讃岐国の領主、生駒高俊が「わが藩の馬術師範曲垣平九郎にお申し付け願いたい。」と申し出ました。
将軍や諸大名の居並ぶ前でこの難問に挑もうとする平九郎は、将軍に一礼するとひらりと馬の首を石段に向けると、ピシッと鞭を当て、一気に石段を駆け登りました。平九郎は、七合目あたりの所で馬の左目を扇子で目隠しし、首筋を軽く叩き馬の気を鎮め、機を見て残る三十段程の石段を「綾千鳥」という、石段をジグザグに登る方法をとりました。
この時平九郎は、高い石段の上から下を見て馬が驚かないよう馬の目を左右交互に扇子で目隠しをするという手綱さばきを見せたのです。
固唾を飲んで見上げていた将軍家光公はじめ、居並ぶ大名や旗本は、平九郎の見事な手綱さばきにドット歓声をあげました。
山上で馬を降りた平九郎は、本殿を拝した後、紅梅と白梅を一枝づつ折って、それを襟にさし、再び馬に乗って石段を下りました。無事、下山した平九郎は、家光公に梅の枝を差し出し、再び上がった歓声の中で「その方、日本一の馬術の名人ぞ」と言った家光公の言葉だけが、平九郎の耳にひときわ高く響きました。
平九郎には、将軍直々に、脇差し一振りを与え、生駒高俊、平九郎主従は大いに面目を施したということでした。平九郎の名は一日にして全国に轟いたと伝えられています。
この日、菩提寺である芝増上寺を参拝した将軍家光公は、その帰途、愛宕山の下を通りかかりました。そして、ふと見上げた山の上に梅の花が美しく咲いているのを見て「誰か馬にてあの梅の花を手折ってまいる者はおらぬか」ときんじゅう近習(常に主君のそば近くに仕える人)の者に問いかけました。
愛宕山は、標高四十五メートルの小さな山で、愛宕神社が奉られています。拝殿までは、山の下から四十度という急勾配の石段があり(八十六段)正面の参道を男坂。これに対して女坂と呼ばれる登り道は、男坂の右側にあり、石段は百九段ありますが男坂より勾配はかなり緩やかです。
山上まで一直線に上る急勾配の男坂を、騎馬で登れという将軍の言葉に従う大名、旗本の面々は、互いに顔を見合すだけで、誰一人として名乗り出ようとしません。
そのとき、讃岐国の領主、生駒高俊が「わが藩の馬術師範曲垣平九郎にお申し付け願いたい。」と申し出ました。
将軍や諸大名の居並ぶ前でこの難問に挑もうとする平九郎は、将軍に一礼するとひらりと馬の首を石段に向けると、ピシッと鞭を当て、一気に石段を駆け登りました。平九郎は、七合目あたりの所で馬の左目を扇子で目隠しし、首筋を軽く叩き馬の気を鎮め、機を見て残る三十段程の石段を「綾千鳥」という、石段をジグザグに登る方法をとりました。
この時平九郎は、高い石段の上から下を見て馬が驚かないよう馬の目を左右交互に扇子で目隠しをするという手綱さばきを見せたのです。
固唾を飲んで見上げていた将軍家光公はじめ、居並ぶ大名や旗本は、平九郎の見事な手綱さばきにドット歓声をあげました。
山上で馬を降りた平九郎は、本殿を拝した後、紅梅と白梅を一枝づつ折って、それを襟にさし、再び馬に乗って石段を下りました。無事、下山した平九郎は、家光公に梅の枝を差し出し、再び上がった歓声の中で「その方、日本一の馬術の名人ぞ」と言った家光公の言葉だけが、平九郎の耳にひときわ高く響きました。
平九郎には、将軍直々に、脇差し一振りを与え、生駒高俊、平九郎主従は大いに面目を施したということでした。平九郎の名は一日にして全国に轟いたと伝えられています。